本学の卒業生でもある、陶芸家 有本空玄先生から、志野焼の壷を寄贈いただきました。

もともと古建築が好きで、本学でも建築学を学ばれた有本先生ですが、初めから陶芸家になろうと思われていたわけではありませんでした。

有本先生は、ある日、通りがかりの骨董屋で土物茶碗を勧められて購入します。
ところが後日、それは偽物だったと分かります。
その時、ほんの少し陶芸に興味を持ちました。

その後、ふらりと立ち寄った資料館で、ひとつの茶碗に遭遇します。
有本先生は、その茶碗を前にして、一度で心を奪われてしまいました。
そして「自分はこれを作らないといけない」と感じ、陶芸家の道を志したのだそうです。
まさに「運命の出会い」です。

有本先生の陶芸は「独学」です。
誰かに弟子入りして技術を学んだわけではなく、インターネットも普及していない中、いろいろな本を読んで試作されたそうです。
そのため、多くの失敗も経験された有本先生ですが、
「今、思い返すと、広島工業大学で学んだことが生きているなと思います。ものづくりは、たくさんの実験をして、考察を繰り返します。失敗して、初めて考察が間違っていなかったということを証明することができるのです。これは陶芸にも通ずるものです。私が、もし成功する方法だけ学んで土と向き合っていたら、壁にぶち当たった時、それを超えることが出来ていなかったと思います。」そう話してくださいました。

寄贈いただいたピンク色の志野焼の壺、夕日にあたるとピンクがより鮮やかになるとのこと

寄贈いただいたピンク色の志野焼の壺、夕日にあたるとピンクがより鮮やかになるとのこと

寄贈いただいた壷の特徴をお尋ねしたところ、「流線」という答えが返ってきました。
世の中の流れに巻き込まれず、逆らうこともない「流れ」を表現されたそうです。
これは、私たちの教育にも通ずるものがあるように思います。

最後に、有本先生曰く。
「ふとした時に見て元気になり、明日も頑張ろうと思えるような作品を創り続けたい」
陶芸家の熱い想いに触れました。

今後も、唯一無二の陶芸家として、ますます活躍されるよう、心から応援しております。

志野焼とは・・・

桃山時代に始まる岐阜県の美濃焼(みのやき)の一作風で、長石釉(ゆう)(白釉)をかけた陶器の総称。長石に灰を加えた白釉が美濃焼で焼かれ始めるのは室町時代末期(16世紀中葉)とする説もあるが、長石単味の白釉が登場するのは桃山時代前期、天正(てんしょう)から文禄(ぶんろく)にかかる1580~90年代ではないかとする説が有力となりつつある。
美濃焼は瀬戸焼から分派して成立した窯であるが、瀬戸焼が茶入れや茶壺(ちゃつぼ)に主力を傾けていた桃山時代に、新興のわび茶の世界でにわかに造形の魅力を問い始めた時代相を背景にして、茶碗(ちゃわん)、花入れ、水指(みずさし)、香合(こうごう)、香炉、そして食器類に創意を発揮したのが志野焼であった。当時すでに中国製の白磁や染付が全国的に広まっていたが、美濃窯は白釉を創始することにより、磁器の冷徹な味わいを離れた、和様の雅陶をつくりだしたのである。まず鉄絵の具を用いて釉下に文様を描くいわゆる絵志野が考案され、鉄分の多い鬼板(おにいた)を白素地(しろきじ)全面に塗りつぶしてから、文様を掻(か)き落として白釉を施す赤志野と鼠(ねずみ)志野、そして鬼板のかわりに黄土を用いる紅(べに)志野などの多彩な加飾法が案出されて、桃山ならではの当意即妙の文様を表した。なお桃山後期に流行する織部焼(おりべやき)の作風に近い絵志野は、俗に志野織部とよばれている。

※出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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